幻想廃墟の裏庭空間

「そこに真っ白な空白があると、何かを書きたくならない?」

地下道に入ると照明が暗くなり、乾いた埃の匂いが鼻をくすぐる。その感覚は誰しもが感じていることだと思う。だけど、私はその感想を聴いたことがない。ひょっとすると、あのときに感じる違和感は私だけが感じているものなのだろうか、と人の波を泳ぎながら地下道をゆく。
認識している外の事には可能性が生まれ、可能性にはまた可能性が生まれ、少なくとも私の心のなかでは、実証しない限りは収束しない。余り確かめる気もないものは、程々に膨らませた方が楽しいものなので、私は疑問に蓋をしないままよく歩く。友人に頭に花が咲いてると揶揄されるのはこれのせいだろう。しかし、地下道の匂いから、認識の差異や分断に思いをはせたりするのは、そこまで悪い事なのだろうか。
地下道と言うのは暗いイメージがあるけれど、この場所は明るい。技術向上のおかげか、紙のように薄いディスプレイを壁と柱に巻いているらしい。数秒ごとに薄いディスプレイが雄大な海や空を表示し、キャッチコピーと同時に企業名とアイコンを映す。その映像が立ち並ぶ柱と壁すべてに映し出されるものだから、私なんかは少しくらくらする。
行き過ぎる無数の人と無数の姿。声とサウンド、宣伝と様々な店がそれぞれ違う商品を扱っている。情報の洪水、と言うよりは情報の濁流と言った感じがする。
そうして、目まぐるしい情報と、無数の人通りの中に酔いながらなんとか泳ぐ。少し実家の片田舎が懐かしくなる。何もない場所にいるときは何かに憧れ、何もかもがあると何もないことに憧れる。基本的に欲求というものはシーソーや天秤に似ているものかもしれない。
私はポケットからデバイスをとりだし、改札口の青い光に取り付ける。これでお金を支払ったことになる。金貨と銀貨の含有率で商人同士が殴り合ったり、ギルド同士で共謀する事のない、至ってシンプルな会計システムは魔法があったとしても、努力と発明がない限りは実現しえないでしょうね、と少し微笑ましくなる。或いはこの何気ない行為の裏側では鮫が周りを泳いでいて、一つ扱いを誤れば食べられてしまうのかもしれない。まあ、このちいさなカードが財産とイコールとなっている事を考えれば、その可能性の方が高いだろう。
面白いなあ。と素直に想う。
私はちいさな水彩で描かれたうさぎを眺めてから、携帯をポケットに戻し、四角い窓から灯りをもらす地下鉄に近づき、扉から内部に入る。
そして椅子に座り、デバイスを起動して、小説を読む。
しかし、このスマートフォンには、既に小型PCに常駐型のSNSと電話と更に地図と衛星からのナビゲーションと防犯機能と財布と図書館と店を持ち合わせている。この先は、実際に脳が認識したものに追加情報を拡張させて表示させる増設する海馬のようなものになったり、髪の毛にヘアピンみたいにカジュアルな電極をつけるだけでデバイスに触らずに操作できるようになったりするのだろうか。そして雨が降ったら皆、鼻と耳から血を吹いて倒れるのだ。
うん。だめじゃん。

考えを走らせるのは楽しい。
友達にも話さなければ親兄弟にも話さないけれど、自分の気持ち、自分が思った事を無作為に繋げていく。次に何を見て何を想うのか、自分でもよくわからないままに、見たものをどんどん繋げて世の中とのずれが大きくなっていく。乖離していく。
何か自分がよくわからないものになっていく。
それが楽しくてたまらない。